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夏生まれの君へ.png

 拝啓 日差し強く、暑い日が続いております。体調など崩されておりませんでしょうか?

 何時の時代、何処の土地で生きているのか、想像も付きませんが、夏は今も変わりなく暑いのであろうと
推察いたします。
 夏には、たくさんの想い出があります。長い長い時間の海を、共に泳いできた仲間との想い出が。
 この手紙を読んでいる君の名前を、オレは知りません。なのにこうして筆を取っているのは、君に伝えておきたい事があるからなのです。
 オレは間違えてしまった。

 オレの弱さが、皆の運命を狂わせてしまった。

 地獄は……オレが呼び寄せたものでした。
 その地獄を、押し付けてしまうオレを、君は赦さなくていい。
 誰もがオレ達の『人生』を見て、不幸なものだと言うだろう。でも君にだけは知っておいて欲しい、決してそれだけではなかったと言う事を。
 もう辞めてしまいたい、解放されたいと願った事は、実際数え切れない。本当にもう、限界だった。
 擦り減った神経は思考を歪ませ、そのいびつさは周りに伝染し、ゆっくりと侵食していった。
 家族、同士、友人、そして仲間……どれもしっくりこない。運命共同体、と言えばいいのかもしれないが、それもまた、当て嵌まらない。
 では一体、オレにとって彼らの存在は、何であったのか。
 足枷、なのかもしれない。 忌々しく、常に断ち切ってしまいたい足枷、それがオレにとっての『オレ
達』でした。
 愛はあった、愛すべき足枷だったのだ。
 そしてそんな足枷にこそ、オレは縋って……必死にしがみ付いていた。
 君はそんな鎖からは、解放されていい。
 断ち切った鎖を、再び結び直すか、永遠に焼き切ってしまうのかは、君の選択です。
 オレには、オレの魂を支配している存在がありました。誰よりも憎い……それは敵よりも更に。その憎悪の対象にこそ、オレは縋っていました。
 放せない、どうしても手放せない。オレの存在で、中身を満たしていて欲しかった……狂っているのは承知しています。分かっていても、求めずにいられなかった。
 その存在もまた、オレを憎んでおりました。そして、愛してもくれていた。憎しみを勝る愛を、オレに注ぎ続けてくれた。なのに……その愛を、信じる勇気がオレにはなかった。
 だから君に伝えたい、怖がらないで、と。
 もしかして『彼』は、君の前に現れるかもしれない。永遠に姿を消し、二度と会えない可能性の方が高いとは思う……否、あんな事があったと言うのにオレは確信してしまうのです『彼』は再び、やって来ると、君の前に、その姿を現すのだと……探し出してしまうのだと。
 再会したら、手放してはいけない。 その手を掴んでください。
 君にはその勇気がある、オレにはなかったそれが。
 どうか……どうか幸せになってほしい。
 誰よりもオレは、君の幸せを願っています。
 その道のりは、きっと険しい。それでも、背を『彼』に預け、共に歩んでほしい。それが君の幸せだと、知っているから。そんな事を言う、資格などないと分かっていても伝えたい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 オレは許されない事をした。なのに、君の幸せを願ってしまう……ごめんなさい。

 君を知らないオレが、君の誕生した日を知る術はない。なのに何故、こうして手紙を書いているのかは、オレ自身も分かっていません。
 ただ漠然と、この夏の暑い日に誕生した君を想うのです。そしてこの想いは、間違っていない確信もまた。この感覚はきっと、オレにしか分からないものなのだろう事も。誰よりもオレが、君の存在を強く感じているのだから。
 この先の人生は、険しく苦しいものになるだろう。汚泥を啜り、地べたを這う君……分かっているのに、オレに出来きる事は何もない。
 だから、ちっぽけな祈りを捧げる事を、どうか赦してほしい。
 強くしなやかに、生き抜いてほしい…『彼』と共に。君の誕生を、心から嬉しく思います。
 生まれてきてくれて、ありがとう。
                 
                                              敬具
  七月二十三日
                 
                                            加瀬賢三
名前を知らない君

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